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秋田市のアズ動物病院です。

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 歴史の話

院長の『釜瀬 富太郎』です。

『釜瀬』という名前は、あまり聞いた事が無いと思います。

それもそのはず、
全国に71家族(300人位)しかいない珍しい名前だからです。
でも、『釜瀬』という名前は400年以上前から続いています。

先祖は、
京都の「清水寺」や秋田の「太平山三吉神社」で有名な
征夷大将軍『坂上田村麻呂』の一族だったので、
1500年以前までたどることが出来ます。※1

『応神天皇』の時代、
当時の『日本(ヤマト政権)(ヤマト王権)(大和朝廷)』は、
現在のような統一国家ではなく、
各地で勢力争いが行われ、政治経済、文明文化など、
諸外国に比較して遅れをとっていました。

その為、『ヤマト政権』は、
海外より優れた技術者を呼んで、
国を発展させる為、
先祖の『阿智使主(阿知使主)(阿知吉師)
(阿智使主直)(阿智王)』が呼ばれたそうです。

そして、先祖の『阿智使主』は、技術者集団を連れてきて、
『ヤマト政権』の発展に尽くしたそうです。

ちなみに、『ヤマト政権』が国号『日本』を名乗るのは、
1300年位前だそうです。

そして、時代は流れ、『仁徳天皇』の崩御後、
『仁徳天皇』の第1皇子『去来穂別(大兄去来穂別尊)
(大江之伊邪本和気命)(大兄伊射報本和気命)
(伊耶本和気)』の即位式(戴冠式)が行われ、
『履中天皇』になられました。

即位式の後、祝宴が終り、皆が寝静まった夜、

以前より王位を狙っていた
『仁徳天皇』の第2皇子『住吉仲皇子(墨江中王)
(墨江之中津王)』の軍隊により、

『履中天皇』が休息していた「難波宮」が包囲され、
火をかけられ、絶体絶命の窮地に陥ったそうです。

その時、中級役人だった先祖の『阿知直(阿智)』が、
『履中天皇』を助けたそうです。

その後、『履中天皇』は、
『住吉仲皇子』の謀反を鎮圧したそうです。

そして、
『履中天皇』の信頼を得ていた先祖の『阿知直』は、
『ヤマト政権』の財政を任されるようになったそうです。

そして、
檜隈(現在の奈良県)に土地をもらったそうです。

先祖は、出世したので、新しい名前を考えたそうです。

『後漢の霊帝』の末裔を称していた事と、

先祖の『阿智使主』が、
日本の発展に必要な優れた学者として、
海外から呼んだ『王仁(和邇吉師)』の子孫で、
古市郡(現在の大阪府羽曳野市)を、
本拠としていた『西漢(河内漢)(川内漢)
(西文)(西書)』氏と区別するため、

『東漢』を名乗るようになったそうです。

ちなみに、当時、日本は『倭』と呼ばれていたので、
『倭(日本)』にいる『漢』の末裔という事で、
『倭漢』という字も使っていたそうです。

そして、時代は流れ、
先祖の『東漢掬(東漢直掬)』は、『雄略天皇』に仕え、
軍事及び文筆・工芸技術の管理を行っていました。

当時、吉備(現在の岡山県)は、
全国有数の鉄の産地で、優れた製鉄技術を有していました。

ちなみに、吉備に技術指導したのは、
先祖の『阿智使主』と言われています。

そこを支配する吉備一族は、
豊富な鉄資源を経済基盤として、次第にその勢力を拡大して、
『ヤマト政権』と肩を並べる程になったそうです。

『雄略天皇』の4人いる妃の内の1人であった
吉備一族の『吉備稚媛』が、その力を背景に、
自分の子供の『星川皇子(星川稚宮皇子)』を、
『ヤマト政権』の天皇に即位させようとしていました。

そうすると、
『ヤマト政権』における吉備一族の勢力が、
著しく拡大してしまう事を、
『雄略天皇』は懸念されたそうです。

その為、『雄略天皇』は、死期を悟られた時、『大伴室屋』と
先祖の『東漢掬』に、次の2つの事を命じたそうです。

「自分の死後は、吉備一族とは関係ない
『葛城韓媛(『雄略天皇』の皇子時代からの妃)』の子
『白髪皇子(白髪大倭根子命)
(白髪武広国押稚日本根子天皇)』を即位させる事。

その事に対して、『星川皇子』と吉備一族が、
謀反を起こす可能性があるので、速やかに対処する事。」

そして、『雄略天皇』崩御後、479年に『星川皇子』が、
吉備(現在の岡山県)の豪族:『吉備上道臣田狭』と
吉備一族の支援を得て、

神宝が納められた『斎蔵』、皇室の財物が納められた『内蔵』、
政府の財物が納められた『大蔵』を占拠し、
『星川皇子の変(乱)』と呼ばれる謀反を起こしました。

その為、事前に謀反対策をしていた『大伴室屋』と
先祖の『東漢掬』は、速やかに鎮圧したそうです。

『星川皇子』の援軍として、
吉備一族が、吉備(現在の岡山県)より、
40隻の軍船で進軍してきたそうです。

しかし、予想より早く鎮圧されたため、
吉備一族は引き返したそうです。

そして、吉備一族の領地は、
謀反に加担したということで、
『ヤマト政権』に没収され、
吉備一族の勢力は弱まったそうです。

そして、『白髪皇子』は即位され、
『清寧天皇』になられたそうです。

『東漢掬』には、子供が3人いたのですが、
末子だった先祖の『東漢直爾波伎(東漢爾波伎)』が、
東漢(倭漢)氏の本家を継いだそうです。

ちなみに、『東漢掬』の次男『東漢志努』は、
『坂上田村麻呂』の先祖だそうです。

そして、時代は流れ、
『ヤマト政権』は、
軍事や裁判を担当する保守派の物部氏や
財政や外交を担当する新興勢力の蘇我氏を
中心とした豪族が、
政治を動かすようになっていました。

『蘇我馬子』は、政権の安定化を目指し、
豪族を中心とした中央集権確立のため、
律令制度を完成させたいと考えていました。

そのためには、土地改革すなわち、
地方に多くの土地をもつ豪族から、
全ての土地を取り上げ、
朝廷の物にする必要があると考えました。

当時の日本の宗教は、仏教ではなく、神道でした。

しかし、神道は、先祖神、土地神等により、
非常に強く人と土地を結び付けるという要素があります。

仏教は、当時の日本にとって、
中国、韓国から来たばかりの、新しい宗教でした。
だから、蘇我氏に都合の良いように導ける物でした。

そして、日本に入ってきた仏教は、大乗仏教で、
「出家し悟りを開いた個人だけが救われるのではなく、
出家した人に導かれて、大勢の人々が救われる。」
という物でした。

それは、大衆にとって、
理解しやすく、受け入れ易いものでした。

また、仏教は、地域を守るというより、
祈る事によって飢餓や疫病、
そして、戦乱を防ぎ、
国を安泰させるという
鎮護国家思想の側面もあり、
人々を土地ではなく国に、
目を向けるようにすることが出来ました。

その為、『蘇我馬子』は、
仏教を広めることにより、
土地と人との宗教的な結び付きを、
弱くしたいと考えました。

仏教の僧尼は、
最先端の土木工事、医療技術、文化など
色々な知識や技術に精通している超エリートでした。

そのため、仏教導入は、
その知識や技術も合わせて導入できるので、
『蘇我馬子』の父『蘇我稲目』の念願でもありました。

ちなみに、『蘇我稲目』は、
『百済の聖明王』より送られれてきた
日本に初めて入ってきた仏像を拝んでいたそうです。

そして、その仏像のために、
『蘇我稲目』は、向原の家を浄めて、
日本最初の寺『向原寺』にしたそうです。

しかし、その後、疫病が流行った時、
『物部尾輿』は、
その原因が仏教のせいだと批判したそうです。

そして、『向原寺』を破壊して、
仏像を難波の堀江(難波池)に投げ込んだそうです。

しかし、その後も疫病は続いたそうです。

『ヤマト政権』の神道を担当する中臣氏、
そして、神道を信じていた『物部尾輿』と

仏教を信じていた『蘇我稲目』は、

宗教をめぐって対立していましたが、
決着がつかなかったそうです。

その為、宗教を巡る争いは子供達の代にまで続き、

『物部尾輿』の子『物部守屋(物部弓削守屋)』と
『蘇我稲目』の子『蘇我馬子』が争うことになったそうです。

そして、『蘇我馬子』は、
百済から来た『鹿深臣』と『佐伯臣』より、
二体の仏像をもらい受け、
独自に拝んでいたそうです。

ちなみに、忍者で有名な甲賀という地名は、
甲賀に住んでいた『鹿深臣(かふか)』に、
由来するという説もあります。

『蘇我馬子』は、
正式な方法で仏像を拝むため、

日本に仏教が伝わる前から仏教を信仰していた
『司馬達等(鞍作村主司馬達等)(按師首達等)
(鞍部村主司馬達等)(案部村主司馬達等)』と

当方の遠い親戚の『池辺直氷田(溝辺直)』に、

仏教の事をよく知っている人物を
探すよう命じたところ、
高句麗から来た『恵便』という僧を見つけました。

『恵便』は、高句麗の『平原王』の指示により、
日本との関係強化の為、来日したのですが、
廃仏派による激しい迫害を受けたので、
還俗して隠れて暮らしていたそうです。

そして、『蘇我馬子』は、
『司馬達等』の娘『嶋(斯末売)』の教育を、
『恵便』に頼みました。

そして、『善信尼』となりました。

ちなみに、日本最初の出家者(僧尼)は、
女性の『善信尼』だそうです。

最初の出家者が女性なのは、

太陽の女神『天照大神(天照大御神)
(大日女尊)(大日霊)(大日女)
(天照大御神)(天照皇大神)(皇大御神)
(天照坐皇大御神)』が、

弟の『スサノオ(スサノヲ)
(スサノオノミコト)(素戔男尊)
(素戔嗚尊等)(建速須佐之男命)
(須佐乃袁尊)(神須佐能袁命)
(須佐能乎命)』の乱暴狼藉に怒って、

天岩戸に隠れて、
世界が暗闇になった時、

女神の『アメノウズメ(アマノウズメ)
(天宇受賣命)(天鈿女命)』の踊りにより、
『天照大神』が岩戸より出てきて、

再び世界に光が戻ったという話がありますが、

日本では、古来より、
神楽を舞ったり、祈祷をしたり、
神託を得て他の者に伝えたり、
占いをしたりして、神に仕えてきたのが、
主に女性の巫女だったので、
違和感を覚える事も無く、
仏教と女性が繋がったのかもしれません。

ちなみに、巫女と同じく神に仕え、
神託を得て他の者に伝える男性の事は、
「覡(神和)(祝)」と言うそうです。

その後、尼は『善信尼』、『禅蔵尼』、
『恵善尼』の3人になりました。

そして、『蘇我馬子』は、
3人の尼に深く帰依しました。

しかし、その後、疫病が流行った時、
『物部守屋』と『中臣勝海』は、
その原因が仏教のせいだと批判したそうです。

そして、『物部守屋』は、
仏像を廃棄し、3人の尼を捕らえ、
全裸にし、群衆の前で鞭打ったそうです。

しかし、その後も疫病は続いたそうです。

ちなみに、『司馬達等』の
息子『徳斎法師(鞍作多須奈)』も、
後日、出家したそうです。

そして、『徳斎法師』の
息子の『鞍作止利(鞍作鳥)(司馬鞍作首止利)』は、
『法隆寺金堂本尊の国宝釈迦三尊像』を
制作した仏師だそうです。

そして、『用明天皇』が崩御された後、
朝廷では、次の天皇を誰にするか?という事と、
仏教を導入するか?を巡って意見が分かれていました。

そして、神道推進派で、保守派だった『物部守屋』と

仏教推進派で、
新しい制度の律令制度推進派だった『蘇我馬子』が対立し、

『丁未の乱(丁未の変、丁未の役、物部守屋の変)』と呼ばれる
戦いが起きました。

『丁未の乱』時に起きた犬の話がありますが、
時間がある時にでも、『雑学メモ』を見てください。

ちなみに、物部氏も仏教により、
先進国の知識や技術が得られるという事で、
表向きは、神道推進派でしたが、
仏教の寺『渋川寺(渋川廃寺)』を建てていた
可能性があるそうです。

だから、『丁未の乱』は、宗教戦争ではなく、
権力闘争だと言われています。

当時、先祖の東漢氏は、
蘇我氏に仕えて、軍事部門を担当していたそうです。

ちなみに、西漢氏は物部氏に仕えていたそうです。

物部氏は、『ヤマト政権』の軍事担当だったので、
「武士(もののふ)」の語源となる位、
強力な軍隊を持っていて、
蘇我氏軍団は、かなり苦戦したそうです。

しかし、
『泊瀬部皇子(長谷部若雀尊)』、
『厩戸皇子(聖徳太子)(豊聡耳)(上宮王)
(上宮太子聖徳皇)(上宮之厩戸豊聡耳命)
(豊耳聡聖徳)(豊聡耳法大王)(法主王)(東宮聖徳)』、
『竹田皇子』などの皇族や、諸豪族、

祖先の東漢氏などの活躍もあり、
最終的には、蘇我氏が勝利しました。

ちなみに、『丁未の乱』の後、
『物部守屋』の子『那加世』は、
家臣『捕鳥男速』連れられて、
日殿山(現在の秋田県大仙市) に逃げてきたそうです。

その後、『那加世』の子孫の方々は、
秋田県大仙市にある『唐松神社』の宮司を、
代々やられているそうです。

ちなみに、『丁未の乱』で、
廃仏派の物部氏が滅亡した後、
『善信尼』、『禅蔵尼』、『恵善尼』は、
より詳しく仏教の戒律を学ぶため、
百済に2年間留学し、
帰国後は、日本の仏法興隆に貢献したそうです。

『丁未の乱』の後、『泊瀬部皇子』は、
伯父の『蘇我馬子』の推挙により、
即位して『崇峻天皇』となられました。
しかし、実権は『蘇我馬子』が持っていました。

そのため、『崇峻天皇』は、
伯父の『蘇我馬子』に対して、
次第に反感を持つようになりました。

『蘇我馬子』は、
『崇峻天皇』が反感を持ってきた事を知ったので、
自分が排除される前に、『崇峻天皇』を排除して、
自分の言いなりになる天皇を、
即位させる必要があると考えました。

そして、『蘇我馬子』の命により、
当方の親戚の『東漢駒(東漢直駒)』が、
『崇峻天皇』暗殺の陰謀に関わったそうです。

しかしその後、『蘇我馬子』は、
陰謀の首謀者として、追及されそうになったので、

全責任を『東漢駒』に押し付けて、
その後、口封じのために殺したそうです。

その後も、先祖の東漢氏は、蘇我氏に仕えていましたが、
一族から大罪を犯した者が出たという事で、
要職にも就けず、肩身の狭い思いをしていました。

そして、『蘇我馬子』は、
姪の『炊屋姫(額田部皇女)(豊御食炊屋姫尊)
(豊御食炊屋比売命)』を、
『ヤマト政権』としては、
正式には初となる女帝『推古天皇』として
即位させました。

そして、『蘇我馬子』は、
甥の『聖徳太子』を皇太子とした後、協力して、
『冠位12階』や『17条憲法』を決定したり、
中国の『隋』に『遣隋使 小野妹子』を派遣したりして、
国政を動かしたそうです。

朝廷では、政敵の物部氏がいなくなったので、
蘇我一族の独壇場となり、誰も逆らえませんでした。

そして、権力は、『蘇我馬子』の子『蘇我蝦夷(蘇我毛人)』、
孫『蘇我入鹿(蘇我鞍作)』にまで引き継がれていきました。

それに対して『中大兄皇子(葛城皇子)』と
『中臣鎌足(中臣鎌子)(藤原鎌足)※2先祖』が、
反旗をひるがえす計画を立てたそうです。

蘇我一族はエリート意識が強く、
自分たち以外の人間は、使い捨ての駒と考えていたので、
蘇我一族の傍若無人ぶりが、とても激しかったそうです。

そのため、先祖の東漢氏は、
蘇我一族に反感を持つようになっていました。

ちょうどその時、先祖の東漢氏は、
『中大兄皇子』と『藤原鎌足※2先祖』に、
国のあるべき姿について説明され、
協力を求められたそうです。

『中大兄皇子』と『藤原鎌足※2先祖』に賛同し、
その上、蘇我一族の横暴に、危機感を抱き始めていたので、
協力する事にしたそうです。

そして、645年、『乙巳の変』と呼ばれる政変が起きました。

『蘇我入鹿』が、『中大兄皇子』と
『藤原鎌足※2先祖』により、
殺害されたのです。

驚いた『蘇我蝦夷』は、護衛と反撃の為、
先祖の東漢氏に助けを求めたのですが、
『中大兄皇子』側についた事を知り、
孤立無援となったため、
『蘇我蝦夷』は自害したそうです。

そして、豪族を中心とした政治から、
天皇を中心とした中央集権を目指した政治改革:
『大化の改新』がおきたそうです。

ちなみに、『藤原鎌足※2先祖』は、
元々『ヤマト政権』の神道を担当していた中臣氏出身でしたが、
中臣氏の家業の神道の祭官になるのを辞退した位なので、

日本の宗教を、神道に戻すのも、
仏教一色にするのも、気が進まなかったので、
神道と仏教の良い所を混ぜ合わせた、神仏習合を行いました。

ちなみに、
『藤原鎌足※2先祖』が祀られている
『談山神社(多武峯寺、多武峯妙楽寺)』は、
神仏習合の宗教施設だったそうです。

ただし、明治政府は、
王政復古、祭政一致の理想実現のため、
神道を国教化するために出した
『神仏判然令(神仏分離令)』で、
神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、
神社と寺院とをはっきり区別させる事になり、
『談山神社』は、神社になりました。

その為、山伏で有名な修験道は、
神仏習合を基盤にした日本独自の宗教だったので、
多くの修験の霊山や寺院が消滅したそうです。

そして、『藤原鎌足※2先祖』らは、
色々な国内制度や即位する為の環境を整備し、
668年、『中大兄皇子』は、
『天智天皇』として即位されたそうです。

そして、
672年『天智天皇』崩御後、皇位継承紛争:
『壬申の乱』がおきたそうです。

次の天皇の有力候補だった
『天智天皇』の皇子:『大友皇子』に、
『天智天皇』の弟:『大海人皇子』が、
反旗をひるがえしたそうです。

その時、先祖の東漢氏は、
『大海人皇子』に味方したそうです。

戦いの時、『大海人皇子』は、
本陣を野上(現在の岐阜県関ヶ原町)に構えたそうです。

すると、近隣住民より桃が、献上されました。

その桃が、非常に美味であったので、
兵士の士気を上げるのと日頃の労をねぎらう為、
『大海人皇子』は、桃を大量に購入し配りました。

そして、『大海人皇子』が桃を配った場所は、
「桃配山」と呼ばれるように、なったそうです。

ちなみに、『関ヶ原の戦い』の時、
『徳川家康』は、『壬申の乱』の故事にならい、
「桃配山」に最初の陣を構えたそうです。

そして、『壬申の乱』は、6万人以上が戦ったと言われ、
その戦いの激しさは、
川の名前を変えたそうです。

戦場となった関ヶ原に流れる「山中川」が、
両軍の兵士の流血で、黒く染まった事から、
「山中川」から「黒血川」と名前を変えて
呼ばれるようになったそうです。

ちなみに、『関ヶ原の戦い』の時、
先祖が仕えていた『小早川秀秋(秀詮)』は、
西軍を裏切り、
西軍の『大谷吉継』と戦ったのですが、
その場所は、「黒血川」付近だそうです。

激しい戦いの後、勝利したので、
『大海人皇子』は、『天武天皇』として即位されたそうです。

その後、『天武天皇』は
『ヤマト政権』の王の呼称「大王」を 、
「天皇」 という言い方に統一 したそうです。

そして、『天武天皇』により、
『東漢駒』が行った事は、恩赦され、
先祖の東漢氏の名誉は回復されました。

そして、先祖の東漢氏は要職につけるようになったそうです。

当時、誰でもが文字を書けるというわけではなかったそうです。
そのため、数学や文字を使いこなして帳簿作成する技術は、
特定の人しかできなかったそうです。

そして、先祖の『東漢本間(調本間)』は、
帳簿作成する事が得意だったので、
租税徴収(租庸調)の仕事に従事したそうです。

その仕事に誇りを持っていたので、
『調』を名乗るようになったそうです。

『ヤマト政権』は、外国の法律を参考にして、
簡単な法令で政治を行っていました。

しかし、天皇を中心とした中央集権化をよりすすめ、
政権を安定させ、法体系が完備した律令国家となる為に、
本格的な日本の実情に合った独自の法律が、
必要になってきていました。

そして、『文武天皇』により、
日本独自の法律 『大宝律令』の律令編纂業務に、
19人が任命されたそうです。

先祖の『調老人(調忌寸老人)(東漢老人)(東漢忌寸老人)
(直広肆調伊美伎老人)』が、その1人に任命されました。

ちなみに、老人とは、
年取った人という意味もありますが、
博学、多才、経験豊富、
何ごとにも動じない強い心という意味もあります。

『大宝律令』は、日本で初めて律と令が完備した法律で、
特に、現在の刑法にあたる律は、日本で初めての物でした。

新しい物が好きな先祖の『調老人』は、
その律の部分の作製に従事し、
また、公布にともなう実務の担当責任者として、
新律令についての講習会等を行ったそうです。

そして、701年に『大宝律令』が発令されたそうです。
それにより、『ヤマト政権』は、新しい律令国家となりました。

それまでは、律令国家ではなかったため、
諸外国からは、未開発国に見られていたそうです。

『ヤマト政権』は、国号『日本』が決定するまでは、
外国から国号『倭(倭国)(大倭国)(大和国)(蜻蛉洲)
(秋津洲)(秋津島)(大倭豊秋津島 )』と
呼ばれていたそうです。

しかし、その国号より、
もっと良い名前を使いたいと言う事と、

諸外国と対等関係にある新しい律令国家になったということで、
国号を変更したいと考えたそうです。

古来より太陽崇拝の習慣があったので、
以前より「太陽の出る所=日の本(ひのもと)」を意味する
国号『日本』を試験的に使っていたそうです。

ちなみに、太陽が出る所とは、
当時の先進国だった中国を中心にした見方です。

その為『大宝律令』が制定される以前、
『推古天皇』が派遣した『遣隋使 小野妹子』が、
携えた国書には、

「日出處天子 致書日沒處天子 無恙」

(=意訳:日出ずる処の天子、
書を日没する処の天子に致す。恙無しや)と、

日本を太陽の出る所、
中国を太陽の沈む所として、
書かれていたそうです。

ところが、これを見た『隋皇帝 煬帝』は立腹し、
「無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな」と命じたそうです。

なお、勘違いしている人もいますが、
『煬帝』が立腹したのは「天子」を名乗った事であり、
「日出處」、「日沒處」の記述では、ないそうです。

「日出處」、「日沒處」は、
仏典の注釈書『大智度論』によると、
単に東西の方角を表す仏教用語だそうです。

中国は、古来より周辺諸国に対し、
『冊封』という外交政策を行っていました。

これは、中国皇帝と周辺諸国は、
君臣(主従)関係を結ぶ事により、
中国皇帝から、王や侯などの爵号を授けられてから、
初めて国として認められるという物でした。

そして、中国皇帝に、
指定された間隔で、指定された経路を通り、
指定された物を献上し、
中国皇帝の徳をたたえる文章を提出するという物でした。

即ち、中国皇帝にとって、
周辺諸国は、中国の臣下でした。

その為、『煬帝』は、周辺諸国を、見下していました。

そして、「天子」とは
「天命を受けて自国一国のみならず
近隣の諸国諸民族を、
支配・教化する使命を帯びた君主」を意味していました。

それなのに、律令国家でもなく、
未開発で、『隋』が統治しているはずの『倭』が、
『隋』と対等である「天子」を名乗ったことに対し、
『煬帝』が立腹したというわけです。

ちなみに、『煬帝』は、暴君で有名ですが、
文才があり、詩人としても、優秀で有名でした。

だから、文字の使い方には、厳しかったのかもしれません。

しかし、『煬帝』は、
『高句麗』遠征を控えていたので、
外交上『倭』との友好関係は必要と判断し、
外交使節『裴世清(裴清)』を、
『倭』へ派遣したそうです。

そして、『大宝律令』が制定され、
律令国家の仲間入りをしたので、
正式に国号『日本』を名乗るようになったそうです。

そして、先祖の『調老人』は、
『正五位上』の官位を賜い、
官僚育成学校の学長:『大学頭』を務めたそうです。

そして、八色の姓で、
『忌寸』という身分を賜ったそうです。
古今東西の名言を集める官職『撰善言司』にも、
任命されたそうです。

そして、現存する最古の日本漢詩集『懐風藻』に、

「三月三日 應詔 玄覽動春節 
宸駕出離宮 勝境既寂絶 雅趣亦無窮 
折花梅苑側 酌醴碧瀾中 神仙非存意 廣濟是攸同 
鼓腹太平日 共詠太平風」と平和を願った詩を書いています。

(=意訳:
旧正月に、天子と一緒に離宮より乗物に乗って少し遠出をし、
風光明媚な梅園に行った。食事と酒を飲んで、
川の流れなどの風景を、
楽しんでいた時に、人々が助け合う微笑ましい所を見た。
皆が思いやりの心を持てば、
平和な世界を謳歌できるでしょう。)

その後、先祖は、
『坂上田村麻呂』と『大墓公阿弖利爲(アテルイ)』との戦いや
『平城太上天皇の変(薬子の変)』に従軍し、功績が認められ、
『宿禰』という身分を賜ったそうです。

その後、『醍醐天皇』の皇子:『有明親王』子孫の
醍醐源氏と血縁関係になったそうです。※3

その為、先祖の『調能高(源高能)※1』は、
源氏の一族になったので、
『源』を名乗るようになったそうです。

ちなみに、
平安末期から鎌倉期にかけて、一般社会では例外を除き、
女性(母や妻)の苗字を名乗る母系制社会から、
男性(父や夫)の苗字を名乗る父系制社会へ移行したそうですが、
その後も入婿の様に、
外家(妻)の苗字に改称する例も多かったそうです。

ちなみに、『寛平御記』で、黒猫を可愛がった
日本最古の愛猫日記を残されている『宇多天皇』は、
『醍醐天皇』の父親です。

そして、先祖の『源高能※1』は、『朱雀天皇』の命により、
『藤原純友の乱』の討伐軍に加わったそうです。

その後、先祖達は、『刀伊の入寇』、
『元寇(蒙古襲来、文永の役、弘安の役)』等で活躍したそうです。

ちなみに、日本に対する外国の侵略は、
『元寇』が最初と思っている人がいますが、

それは間違いで、『元寇』以前に、
『奄美(奄美島、奄美世)の海賊(南蛮賊徒)』、
『刀伊の入寇』があります。

奄美が、まだ完全に日本に編入される前の
997年、突然、奄美の海賊が、
筑前、筑後、薩摩国に来襲し、家を焼き払い、
財物を奪い 、約300 人を拉致したそうです。

でも、一時的な事で、海賊40余人を捕獲し、
すぐに落ち着いたそうです。


1019年3月27日に、
突然、謎の船団約50隻に乗った約3000人の異国人が、あらわれて、
対馬に上陸し、島民を殺害、拉致する事件が起きました。

その後、その船団は壱岐に上陸し、島民を殺害、拉致しました。

これを聞いた大宰権帥『藤原隆家』は、
単なる海賊ではないと感じたので、
直ちに朝廷に事件を報告すると共に、
援軍を求める書状を送りました。

しかし、朝廷はこの事件を
「前みたいに、奄美などの海賊が、
北九州で暴れているだけで、大げさ過ぎる。
大したことない。」と言って、放置していました。

その間に、筑前(現在の福岡)にまで、被害は拡大し、
推定合計400人以上の住民が殺害され、
捕らえた人々の手の甲に穴を開け、
ひもで数珠つなぎにし、
日本の攻撃から船を守る盾にしたり、
奴隷にするため、
千数百人もの人々が、
連れ去られてしまいました。

朝廷は、その報告を聞くと、被害の大きさに驚き、
長期間にわたる検討を続けていました。

朝廷の対応が遅く、被害が拡大していくので、
『藤原隆家』は、独自の判断で迅速に対応し、
地元の豪族達と協力して連合軍を作り上げ、
4月13日に、謎の船団の大分部を撃破し、
残った謎の船団は、逃走したそうです。

その後、謎の船団は、
逃走の途中で高麗を襲おうとしましたが、
高麗人たちが、撃退し、何処かへ逃走したそうです。

そして、高麗人により、拉致された人々の内、
約270人が、助けられ、日本に戻る事が出来ました。
しかし、大多数の人々は、
行方不明のままになったそうです。

朝廷では、
長期間にわたる検討を重ねた結果、4月18日に、
恩賞を与える事を決定し、追討の勅符が出ました。

しかし、追討の勅符が出た4月18日より、
前の4月13日に事件が解決したと聞いた
『藤原行成』、『藤原公任』らが、
「追討の勅符が、出る前に、
蛮族との戦いは終了しているので、
朝廷からの命じられていない所の戦いは、
私闘だから、褒章は不要で、
すぐに解決したから、やはり、単なる海賊だった。」
と言って、九州の豪族達の活躍は認められませんでした。

しかし、この事件をきっかけに、
九州の豪族達(武士)の間では、
中央政府(朝廷)は、頼りにならないので、
自分達(武士)の力を強めなければいけないという
意識が芽生え始めました。

これ以外の『藤原隆家』の話は、雑学メモに書いてありますので、
時間がある時にでも…。

ちなみに、自分の先祖と血縁関係のある菊池家の
初代『菊池(藤原)則隆』は、この時、大活躍し、
『藤原隆家』に認められたので、
菊池家の勢力が拡大したそうです。

その後の調査で、謎の船団の正体は、
後日、中国で『金』や『清』を建国する
中国の北東部に住んでいた「女真族」である事が判明しました。

その「女真族」は朝鮮半島では、「刀伊」と呼ばれていた事から、
この事件を「刀伊の入寇」と言われるようになったとのことです。

その後、先祖達は九州に住むようになり、
先祖の『調能永(源能永)』は、
大隈(現在の鹿児島県)の根占城を守っていたそうです。

そして、先祖の『黒木助能(調宿禰祐能)(源助能)
(黒木大蔵大輔源助能)(黒木祐能)(黒木助善)
(黒木蔵人助善)(黒木蔵人助能)』は、

1167年に新天地を求め、土地紛争問題を2年かけて治めた後、

筑後の 黒木(現在の福岡県八女市:八女茶発祥の地、
直木賞作家:『安部龍太郎』、女優:『黒木瞳※2』の出身地
ちなみに、『安部龍太郎』の新刊が出版したら、
なるべく購入するようにしています。)に、

『猫尾城(黒木城)(調城)』を築き、
周辺地域を治めました。

そして、黒木を治める事になったので、
『黒木』を名乗るようになったそうです。

ちなみに、先祖の『黒木助能』は、
調氏出身だったので、黒木一族は、分家も含めて、
『調党(調一党)(調一族)
(調一統)』と呼ばれているそうです。

城の名前は、城と山の全景が、
猫が休んでいる姿に似ているという事で、
猫尾城と名付けたとの事。

猫尾城は、調氏の城という事で、
調城とも呼ばれているそうです。

ちなみに、1300年以上前の
『ヤマト政権』時代に、

『日本武尊(倭建命)(小碓尊)
(日本童男・倭男具那命)(日本武命)
(倭武天皇)(倭健天皇)(ヤマトタケル)』が、

九州の反対勢力『熊襲(熊曽)』を討伐した後、

その父『景行天皇』が、
八女地方を巡行されたそうです。

その時、『景行天皇』が、
「山の峰々が、重なりとても美しい。
山には、神様がいますか?」と聞くと、

当時、その地域を治めていた『水沼県主猿大海』は、
「山には、『八女津媛』という
五穀豊穣、無病息災の女神が、
おられます。」と答えたそうです。

その神様を祭った『八女津媛神社』が、
先祖たちが治めた地域にあり、
それが、八女市の名前の由来だそうです。

先祖の『黒木助能』は、横笛が得意で、
『壇ノ浦の戦い』が終って、都が荒れていた時、
『後白河法皇』、『後鳥羽天皇』の御前で演奏し、
感動されたそうです。

その為、『後白河法皇』と『後鳥羽天皇』から、
笛の調べ(しらべ)が優れているということで、
『従五位下』の官位と『刀』を賜ったそうです。

ちなみに、天皇から『刀』を賜ったということは、
領国支配の正統性を示すという意味合いがあるそうです。

その時に懇意となった『徳大寺実定』より、仏像をもらい、
現在、文化財として保管されています。

詳しくは『あっちこっち雑記』を見てください。

しかし、その後、大雨の為、
領地内を流れる矢部川の氾濫が続き、
甚大な被害が出て、飢饉が起き、疫病が蔓延した時、

疫病の終焉と川の氾濫が落着く事と豊作を願い、
信心深かった先祖は、
天皇から賜った大切な家宝の『刀』を神様に捧げる為、
矢部川に沈めたそうです。

そして、疫病が治まり、川の氾濫も落ち着き、
豊作が続いたそうです。

その後、『刀』を沈めた場所を、
『劒が淵』と呼ぶようになったそうです。

 その後、動物好きの先祖達は、動物の名前の付いた城
(猫尾城以外に犬尾城、鷹尾城、鷲城、兎城など)を造り、
鹿子尾という地域など、

1584年までの417年間、善政を行い治めていました。



その間、『前九年合戦(前九年の役)』の安倍氏や島津氏など
その他の九州の大名と血縁関係を結んでいきました。※1、2、3

ちなみに、
『前九年合戦』で、
『白鳥柵(動物の名前が付いている。)』を守っていた
『安倍則任』らの安倍氏は、出羽(現在の秋田県)の清原氏と
源氏の連合軍に敗れ投降した後、

拠点の岩手から四国の伊予(現在の愛媛県)に流されました。

しかし、投降せず逃げ延びて、東北に残った安倍氏から人や物が
四国の安倍氏の元に集まってきて、再び勢力をつけきたそうです。

朝廷は、安倍氏が東北に戻って
反乱するのではないかと考え処刑したかったのですが、

朝廷に恭順の姿勢を示していたので、
処刑することが出来ませんでした。

そのため、東北から、
さらに離れた九州の筑前(現在の福岡県)に再配流され、
その子孫は九州に住むことになったそうです。

そして、先祖の黒木氏と血縁関係を結んだそうです。

ちなみに、先祖の黒木氏は、
筑後宇都宮氏の支族の蒲池(後蒲池)氏と
血縁関係を結んでいましたが、

その先祖の『藤原宗円』は、『前九年合戦』で、
安倍氏と戦い、功を挙げたので、
宇都宮(現在の栃木県宇都宮市二荒山神社)
別当職に任じられたので、
『宇都宮』と名乗るようになったそうです。※2

筑後宇都宮氏は、北条時政の娘や、
平長盛の娘と婚姻関係を結んだので、
先祖が、敵同士だった事もあります。

先祖の『調老人』は、平和を願っていましたが、

時代の流れで、
先祖達は、源平合戦(治承・寿永の乱)では、平氏と戦い、
そして、血縁関係のある安倍氏は源氏と戦ったので、
源氏とも戦ったことになります。

そして、『鎌倉幕府』の北条氏とも戦いました。

『鎌倉幕府』に対する討幕運動『元弘の乱』の時、
『後醍醐天皇』の綸旨に従い、
先祖の『黒木善統』は、血縁関係を結んだ菊池氏と共に

『鎌倉幕府』に不満を持っていた『大友貞宗(大友宗麟の先祖)』、
『少弐貞経』、『少弐頼尚』に呼びかけ、
『鎌倉幕府』の『鎮西探題 北条英時』襲撃の密約をしたそうです。

しかし、『大友貞宗』、『少弐貞経』、『少弐頼尚』は、
『鎌倉幕府』が優位と考え、恩賞欲しさに密告し、
反対に『北条英時』と共に攻撃してきたそうです。

先祖達は、一時的には優勢でしたが、最終的には敗れたそうです。

しかしその後、『足利尊氏』が、
京都の『六波羅探題』を攻め滅ぼし、
『鎌倉幕府』が衰退を見せると、

『大友貞宗』、『少弐貞経』、『少弐頼尚』は、手のひらを返し、
『鎮西探題』を攻撃し、『北条英時』を自害させたそうです。

南北朝時代、
『足利尊氏』の『北朝(京都朝廷)』に対抗するため、
『南朝(吉野朝廷)』の『後醍醐天皇』は、
自分の皇子を全国に派遣しました。

東北では、
『後醍醐天皇』の皇子『義良親王』をたてた
『北畠顕家』が、勢力を拡大し、『豊島河原の戦い』で、
京都から『足利尊氏』を追払いました。

九州に逃げてきた『足利尊氏』は、
『大宰府 少弐頼尚』らに迎えられました。

そして、先祖達は、
『後醍醐天皇』に忠義を尽くしていたので、
『足利尊氏』と戦うことになりました。

1336年、
筑前(現在の福岡県)で行われた『多々良浜の戦い』で、
先祖の『黒木善統』と子:先祖の『黒木統利』は、
菊池軍の右翼で奮戦し、
『足利尊氏』が負けを覚悟し、
切腹しようとするところまで、追い詰めたそうです。

 しかし、『足利尊氏』の弟の『足利直義』が、
「逆転する方法がある。」と言って切腹を思いとどまらせ、
膨大な恩賞を餌に菊池軍に裏切りの計略を仕掛けたそうです。

その結果、寝返りが多数出たため、
最終決戦で敗れ、菊池軍は全軍退却し、
猫尾城に篭城したそうです。

しかし、足利軍の猛攻撃に耐えられず、猫尾城は落城しました。

そのため、菊池軍を率いていた『菊池武敏』と
先祖の『黒木善統』と先祖の『黒木統利』は再起を誓って、

一旦、肥後(現在の熊本県)の菊池城(隈府城)まで退却し、
ゲリラ戦を展開し、なんとか持ちこたえました。

そして、『足利尊氏』が京都に上る時に、
足利家分家の『一色範氏(道猷)』を、
九州の統治のため『九州探題』として残しました。

その後、先祖達は、猫尾城を修復した後、反撃に転じ、
1337年の一色軍との戦い『犬塚原の戦い』
(また動物の名前が…)などを制しました。

そして、
1348年、先祖の『黒木善統』と先祖の『黒木統利』は、
血縁関係を結んだ菊池氏と共に
『後醍醐天皇』の皇子『懐良親王』をたて、
九州の足利軍の拠点を、1つずつ攻略し、
勢力を拡大していきました。

そして、『足利幕府』では、
『足利尊氏』と弟の『足利直義』が対立した
『 観応の擾乱』が発生し、

1349年『足利直義』の養子『足利直冬』が、
『足利幕府』に討伐されそうになり、九州へ逃れて来たそうです。

『足利直冬』は、『足利尊氏』の実子でしたが、
母親の身分が低い為、『足利尊氏』に認知されなかったので、
不憫に思った『足利直義』が養子にしたそうです。

『足利直冬』は、『足利尊氏』には嫌われていましたが、
『足利尊氏』の実子という事を利用し、
「尊氏の実子である自分が、世の中を悪くする
逆賊『足利幕府執事 高師直』を討伐する」という
スローガンを掲げると支持を受け、
徐々に勢力を伸ばしていきました。

『少弐頼尚』は、『鎌倉幕府の鎮西探題』を攻略した功績と
『足利尊氏』が九州に逃げてきた時に援助した功績と
全九州の武家の統括機関『鎮西奉行』を
していたという家柄だったので、

当然、『九州探題』の地位が自分に来ると期待していたのですが、
一色氏が任命されたので、それを不服と思っていました。

その為、『少弐頼尚』は、『足利直冬』と血縁関係を結び、
第3の勢力となりました。

その結果、九州には、
先祖達の『征西将軍宮 懐良親王』勢力、
『九州探題 一色範氏』の『足利尊氏』勢力、
『大宰府 少弐頼尚』の『足利直冬』勢力の
3つの勢力が鼎立しました。

『足利尊氏』は、『足利直冬』勢力が拡大していくのを嫌い、
上洛するように命じましたが、従わなかったので、
攻撃するよう『一色範氏』に命じました。

そして、
『一色範氏』の攻撃と養父『足利直義』の死亡により、劣勢となり、
身の危険を感じた『足利直冬』は、
妻や部下達を見捨てて九州から脱出しました。

その後、『少弐頼尚』は、『一色範氏』よりさらに攻撃を受け、
滅亡寸前となったので、敵だった先祖達に、援軍要請をしたそうです。

情に厚い先祖達は、援軍を送ることにしました。
そして1万の兵力が、『少弐頼尚』の救出に向かいました。
一色軍は2万の兵力で、兵力的には劣勢でした。

しかし、以前、足利軍に負けた経緯があるので、
その屈辱を晴らすべく、士気は高かったそうです。

そして、先祖達は、1353年に『針摺原の戦い』で、逆境を跳ね返し、
完膚なきまでに一色軍を撃破し、立ち直れなくなった『一色範氏』は、
九州から逃げていったそうです。

滅亡から救われた『少弐頼尚』は、
先祖達に感謝し、「今後、孫子七代に至るまで、弓を引き、
矢を放つことはしない。」と起請文を書いたそうです。

しかし、しばらくたつと、『少弐頼尚』は、
一色氏という共通の敵がいなくなり、
以前、全九州の武家を統括していたという自負から、
先祖達の下に付く事を不服と思い始め、
約束を破棄し、『足利幕府』と手を組むことにしました。

『足利幕府』は、九州での勢力が無くなっていたので、
九州での勢力復活を考え、『少弐頼尚』が、
『足利幕府』の『一色範氏』を追出した経緯がありますが、
仕方なく、『少弐頼尚』を『足利幕府』の旗頭に任命しました。

そして、1359年、最終決戦の日本3大合戦の1つに数えられる
『筑後川の戦い(大保原の戦い)(大原合戦)』が行われました。

『大友氏時(大友宗麟の先祖)』と
起請文を書いたはずの『少弐頼尚』が
率いる足利軍の兵力6万人と、
先祖達の兵力4万人の計10万人が戦いました。

双方合わせて5千人以上の戦死者が出る大激戦でしたが、
先祖達が勝利しました。

その激しさは、現在も地名として残っています。

太刀に付いた血を川で洗ったので、
その川は太刀洗川と呼ばれるようになり、
川の流れるその町は大刀洗町となりました。

ちなみに、町村制が発足した際、
「太刀洗」と申請していたものが、
誤って「大刀洗」として官報に掲載されてしまったので、
「大刀洗」となったそうです。

他には、「宮ノ陣」、「大将塚」、
「千人塚」、「五万騎塚」など、
この時の戦いに関連した地名が残っています。

その後、
先祖達は、第3代将軍 『足利義満』まで、
九州を独立国として治めたそうです。

中国の『明』は、中国に近い九州を日本の中心と考え、
九州に来れない『足利幕府』は、
『懐良親王』の家来集団と認識したそうです。

そのため、『足利幕府』は、
『明』と貿易がしたかったのですが、相手にされなかったそうです。

『足利幕府』は、
『明』と貿易がしたくて、何度も攻めてきたのですが、
水際で防御され、九州の土を踏む事も出来なかったそうです。

そして、『明 初代皇帝 洪武帝』は、
『倭寇』に困っていたので、『懐良親王』を日本の王と認識し、

正式に『日本国王良懐』の称号で、
使者を送ってきて、『倭寇』の取締りを依頼してきました。

何度も使者が来たのですが、
『元寇』を起こした、『元』からの使者と勘違いし、

その上、『冊封(臣下の礼を取る事)』を要求してきたので、
それを無礼と考え、断っていました。

でも、最後に『趙秩』という使者が来ました。
最初、『元寇』の時の使者の『趙良弼』の子孫ではないかと疑い、

再び『元寇』が起きるのではないかと考え、
斬ろうとしましたが、礼を尽くした態度に触れ、

そして、『元』の使者の『趙良弼』とは関係ないことが分かりました。

そして、『趙秩』は、
「私達の『明』の国は、
『元』のような野蛮な蒙古の国ではありません。
『明』は勢いと力があり、『元』を北の方へ蹴散らしました。

『明』は『元』と違い、礼を重んじている国なので、
貴国も礼を持って対応してください。」と言ったそうです。

そして、『明』で行われている政策を説明したそうです。

それは、全国に国立学校を設立する政策、

全国で『科挙』という試験が行われ、どんな身分の人であっても、
優秀な人材を見つけ出し登用する機会を広げる政策、

そして、『社学』と呼ばれる私立学校が存在し、
農民の子弟に読み書き・計算などを教えているという事、

それらが全国民の生活・文化レベルの向上を、
もたらすという話を聞いたそうです。

そして、『明』は、
見習うべき点が多くある素晴らしい国だと感動し、
『倭寇』を取り締まる事と国交を結ぶ事を決めたそうです。

その後、『倭寇』を取り締まった後に、
『明』の政策を、より詳しく学んで、
今後の政策の参考にしたいと考え、

1371年に、『明』への使者として『祖来』という僧侶が、
留学僧9人と馬と献上物を携え、

『倭寇』の捕虜になっていた『明』の男女70余人を連れて、
『明』に行ったそうです。

ちなみに、『日本国王良懐』の名義で貿易をしていたので、

『足利義満』は、九州制圧後も『日本国王』と
『明第2代皇帝 建文帝』から認められ、
『日本国王源道義』の称号を得るまでは、

『明』と貿易をする際には『日本国王良懐』の名義を
使わなければならなかったそうです。

『明』と貿易をしていた関係で、

1406年に、『明』からお茶の種子を持ち帰ってきた、
出羽(現在の秋田県)出身の『栄林周瑞禅師(栄林周瑞)』が、

先祖が治めていた所に立ち寄った際、
気に入って、逗留したそうです。

そして、毎日、岩山で座禅を組んだそうです。

『栄林周瑞』から『明』の様子や禅などの話と、
お茶は薬で、万病に効いたり、予防したり、
気持ちを落着かせる効果があるという話を聞いて、

お茶は特産物になると考えた
新しい物が好きな先祖の『黒木氏勝正清』と

『栄林周瑞』の手助けをして懇意となった
庄屋の『松尾太郎五郎久家』が、

『栄林周瑞』に寺領を寄進し、寺を建立したそうです。

『栄林周瑞』は、『明』での修行先の『霊厳寺』にちなんで、
『霊巌寺』と名付けたそうです。

そこで、『松尾太郎五郎久家』や地域の人々に
お茶の栽培・製法を伝えたそうです。
 
これが『八女茶』の始まりだそうです。

『八女茶』の開祖は、
秋田出身の『栄林周瑞』という事を知っている秋田市民は、
ほとんどいないと思うので、
秋田でもう少し『八女茶』について注目して欲しいと思います。

ちなみに、『松尾太郎五郎久家』の子孫で
34代目当主の『松尾章三郎』さんは、
現在も美味しい『八女茶』を作られています。

もちろん、松尾さんの『八女茶』を飲んだことはありますが、
口当たりが良く、上品でおいしかったです。

『八女茶』と呼ばれるようになったのは大正期で、
それ以前は、
『鹿子尾茶』と呼ばれていたそうです。(ここにも、動物の名前が…)

そして、『懐良親王』は引退し、『良成親王』に地位を譲った後、
話が合って懇意だった先祖が治めていた矢部で余生を過ごされ、
病没されたそうです。

『懐良親王』の軍師的立場の『五条頼元』(『天武天皇』の子孫)と、
その子孫も親王を護衛する為、矢部に住むことになったので、
土地を謙譲したそうです。

その時に、『五条頼元』は、「今後も、黒木一族との関係を、
大切にしていきたい。」と感謝したそうです。

その後、『足利義満』から派遣された
『今川貞世(了俊)』
(『桶狭間の戦い』で有名な『今川義元』の一族)との
戦いに敗れた為、

この後、九州は独立国では無くなり、
足利幕府の管理下に置かれる事になりました。

ちなみに、527年に、
国土統一しようとしていた『ヤマト政権』が、

九州の北半分を統治し、
独自の地域国家を造ろうとしていた
『筑紫君磐井』に対して、
戦いをしかけてきたそうです。

その戦いは、
『磐井(筑紫君磐井)の乱』と呼ばれています。

最終的には、『物部麁鹿火』に率いられた
『ヤマト政権』が勝ったそうです。

その『筑紫君磐井』の墓:『岩戸山古墳』は、
全長170mの大きな前方後円墳で、八女市にあります。

そして、先祖が治めた八女市黒木には、
『素盞嗚神社』があります。

『素盞嗚神社』の
樹齢600年以上の藤の花が見事で、
『黒木の大藤』と言われ、
国の天然記念物と『八女市の市花』に指定されています。

ちなみに、偶然にも、
吉備(現在の岡山県)に技術指導した
先祖の『阿智使主』の功績を称えて、
名付けられた倉敷市の『阿智神社』も、
樹齢500年位の藤の花が見事で、
『阿知(阿智)の藤』と言われ、
岡山県の天然記念物と『倉敷市の市花』に指定されています。

ちなみに、先祖の『黒木助能』は、信心深かったので、
住民の無病息災と自然災害予防と五穀豊穣を願う為、

水神様の『祢都波能売神(彌都波能賣神)≪瀬織津姫命(弁財天)、
罔像女神、速秋津姫命≫』を祭った『中瀬神社』を移転し、

『建磐竜神』と『大己貴命(大国主命)』も合祀し、
『釜屋神社(釜屋宮)』と改名して信仰したそうです。

ちなみに、『瀬織津姫命』は音楽・学問・ 財福の神様で、
『大己貴命』は医薬の神様だそうです。

そして、黒木家と豊後(現在の大分県)の大友家との関係が、
悪化し、黒木家存亡の危機を迎えたそうです。

しかし、その問題が解決し、黒木家が安泰となったので、
その感謝と黒木一族繁栄と地域住民の繁栄の願いを込めて、
先祖達は、筑後(現在の福岡県)で、
古くから信仰されている『津江権現』を勧請し、
『津江神社』を創建したそうです。

そして、大友家との関係が良好になり、
元服などの時に、大友家当主より、
偏諱(名前の一文字をもらう)を賜ったそうです。

15代当主『大友親繁』からは、先祖『黒木繁実』、
16代当主『大友政親』からは、先祖『黒木親実』、
20代当主『大友義鑑』からは、先祖『黒木鑑実』や
先祖『黒木鑑隆』が、偏諱を賜ったそうです。

そして時代は流れ、先祖が黒木家より分家をつくる時に、
色々考えたそうですが、

『釜屋神社』を信仰していたので、
以前の神社の名前『中瀬神社』と合わせて、
『釜瀬』を名乗るようになったそうです。

これは、自分が動物病院の名前を考えた時、勤務していた
水族館(アクアリウム)と動物園(ズー)の頭文字を合わせて
アズ動物病院としたのと似ています。

そして、『津江神社』に、黒木家の本家と
分家の『釜瀬主馬』(先祖にも動物の名前が…)、
『椿原兵部』、『中野監物』、『鹿毛兵庫』、
『中村左近』、『香月修理』、
『宮川内匠』、『和仁宮内』、
『佐藤左衛門兵衛』ら黒木一族が協同で、
黒木一族の繁栄と地域住民の幸せを祈願して、
1532年から1555年まで、
宝物を納めたそうです。

先祖が住んでいた筑後には、
一国を統一する勢力は出現せず、
各地域の領主が、血縁関係を結んだり、同盟したりして、
共存共栄的に存在していたそうです。

それらの中でも特に力を持っていた15の領主を、
『筑後十五城(大身十五家)』と言うそうです。

その一つが、黒木家でした。

ただし、
表向きは、近隣の豊後(現在の大分県)の
大友家の強大な軍事力に従っていましたが、
常に独立あるいは敵対の可能性を秘めていました。

そのため大友家は、筑後国内に、
大友家直参の家来の24−33人体制の
『高一揆衆(一揆合衆)(二四頭)(三三頭)』を配置し、
監視していました。

しかし、
先祖が『大友宗麟』に反抗的だった為、
『大友義鎮(宗麟)』が、
勢力拡大を目指し、直接支配する為に、
先祖の住む筑後(現在の福岡県)に、
侵攻してきました。

その為、1584年に『大友宗麟』と戦うことになりました。

『黒木家当主:黒木家永』が守る猫尾城の兵力3千人に対して、

『大友宗麟』の2人の子供:

野心家で気性の激しい『大友親家(田原親家)』と

文武両道に優れて『大友宗麟』に最も信頼されている
『大友親盛(田原親盛)』が率いる大友軍が、
兵力3万人で攻めて来ました。※2

ちなみに、その中には、
以前に先祖が土地を謙譲した『五条頼元』の子孫の
『五条鎮定』が大友軍として参戦していました。

城攻めなら、2−3倍の兵力で充分なのですが、
大友軍の圧倒的な強さに対して、反抗するとどうなるかを、
他勢力へ見せつけるためと、
確実を期するため10倍で攻めてきたのでした。

当初、兵力に大きな差があるので、力ずくで攻めてきました。
しかし、1ヶ月たっても落城しませんでした。

『大友宗麟』が、攻撃してくるのを予想していた先祖は、
兵糧を貯蔵したり、弓矢などの武器を揃え、
抜け道や罠を造ったり、龍造寺家への援軍要請など
色々な準備をしていました。

その上、先祖達は新しい物が好きなので、
数多くの鉄砲を入手していました。

ちなみに、
1543年、シャム(現在のタイ)から
リャンポー(中国の密貿易港)へ向かう途中で、
嵐に遭い、種子島に漂着したポルトガル人の
『牟良叔舎(フランシスコ)と
『喜利志多陀孟太(キリシタダモッタ)』から、
『種子島恵時』と『種子島時尭』父子は、
当時、日本ではまだ、珍しかった
2挺の鉄砲を2000両(現在の1億2千万円)で、
購入したそうです。

そして、鍛冶職人に命じて、国産銃の製造させました。

その後、『津田監物』により、
紀州の根来(現在の和歌山県岩出市)に伝わり、
鉄砲は量産されたそうです。

そして、
和泉国(現在の大阪府堺市)などでも量産され、
種子島に鉄砲が来てから、
50年位後の戦国末期には、
日本国内に50万挺以上あり、
世界最大級の鉄砲保有国になったそうです。

黒木軍の兵士は、勇猛果敢で、
日頃から戦いの訓練も熱心にしていました。

また、指令系統は完成されたものでした。

先祖達は、『孫子』などの兵法書を、
愛読書としていたそうです。

そのため、いくつかある城の抜け道を通って、
大友軍の背後から奇襲をかけたり、
大きな音で脅かしたり、
交代で24時間休み無く攻撃を仕掛けたり、
火攻め、落とし穴、罠などを利用したり、

兵糧庫を攻撃し、補給路を寸断したり、
伏兵が潜んでいる狭い場所に誘い出して殲滅したりなどして、
色々な作戦で戦いました。

その結果、大友軍の強さを見せるどころか、
ほとんどの作戦が成功して、
大友軍の兵力が半分以下に減って、
士気も低下して、怯えだす兵士が増え、
逃げ出す兵士も多数いたそうです。

 『大友宗麟』は、大兵力で猫尾城を壊滅状態にして、
他勢力に威圧を示したかったのに、
むしろ大友軍の方が壊滅状態になりました。

これは、1570年の『今山合戦(今山の戦い)』、
大友軍兵力6万が、
龍造寺軍の兵力5千が篭城した佐嘉城(佐賀城)を、
包囲し、落城寸前だったのに、

龍造寺軍の奇襲攻撃により、
大友軍総大将『大友親貞』が、
死亡し敗退した嫌な思い出を
『大友宗麟』に思い出させました。

また、大兵力だった為、
すぐに猫尾城を壊滅させて、次の地域を攻略し、
勢力を伸ばしてきた島津氏に対抗する予定だったのに、

なかなか落城しないどころか、壊滅状態になったので、
「大友家の威信が低下した。予定が狂った。」と、
烈火のごとく怒ったそうです。

そして、筑前(現在の福岡県)を攻略途中だった、
『戸次鑑連(立花道雪)』、
『高橋紹運(鎮種)』らの名将を呼び寄せ、

「筑前(現在の福岡県)攻略は、後で良いので、
猫尾城を必ず落城させるように」との厳命の元に、
さらに兵力1万人以上を追加したそうです。

『大友宗麟』の期待に応えようと、
やる気満々で気力、体力共に充分だった
『立花道雪』、『高橋紹運』は将兵を集めて、
今までの戦い方を批判し、
正しい攻城戦のやり方を見せると叱ったそうです。

作戦会議中、戦いが長引いていたので、
調略を進言する者がいたそうです。

しかし、『立花道雪』は、
「今まで必勝という信念でやって来たが、
負けたことはなかった。兵力の差が大きし、
弱小な黒木軍相手に調略など不要で、
気合を持って攻撃すればすぐに落城する。」と一蹴したそうです。

でも、さらに1ヶ月たっても落ちないうえ、
黒木軍に龍造寺氏からの兵力2千が援軍として駆けつけて来て、
猫尾城支城の高牟礼城に入り、兵力や士気が上がり、
大友軍を挟み撃ちにする形になり、猛攻撃が始まりました。

その為、大友軍の兵力や士気がさらに低下しました。

『立花道雪』は、大見得を切ったのに、
思ったように攻城戦が進まず、
このまま戦っていると、
再び壊滅的な打撃を受けるという状況になりました。

また、今回の戦いで、
弟の『戸次右衛門大夫鎮実』が戦死した事もあり、
精神的、体力的に落込み、考え事をするようになり、
口数が少なくなり、塞ぎこむようになったそうです。

そして、『立花道雪』、『高橋紹運』は、
まともに戦っては勝てないと考えを改め、
作戦を変更したそうです。

飲水用の川を塞き止めたり、
間者を使って、食料や井戸水に毒薬を仕掛けたり、
食料庫や城内に火を点けたりしたそうです。
そのため、兵糧が少なくなったそうです。

『立花道雪』、『高橋紹運』は、
城内の兵糧が少なくなったら、
すんなり、落城すると考えていたそうです。

しかし、なかなか落城せず、激しい戦闘が続くので、

『立花道雪』は、「これだけ戦闘が続くのは、
どこかに補給路があるに違いない。
近隣住民が兵糧を補給しているに違いないから、
家や田畑などを焼き払らうべきだ。
それにより、黒木軍の戦意喪失につながるので、
一石二鳥だ。」と言ったそうです。

『高橋紹運』や他の武将は、猫尾城が落城したら、
町はそのまま大友家のものになるし、
落城後、町を治める時、住民の反感を買うので、
焼討ちに反対したそうです。

しかし、『立花道雪』は、この戦いで弟が戦死したので、
復讐したかったらしく、焼討ちする事を強行に主張したので、
それに引きずられる形で、焼討ちが決行されました。

大友軍の兵士たちは、
手当たり次第、近隣の民家に押し入り、
家財を略奪し、抵抗する住民を虐殺し、
次々に家や田畑を焼き払いました。

代々黒木家は、
住民を政治の要と考えていたので、大切にしていました。
その為、住民は、黒木家を慕っていました。
そして、『黒木家永』は、戦国には珍しい温情派で、
住民の幸せを第一に考えて地域を治めていました。

『黒木家永』は、城下町の家々が焼かれたり、
老人や女性、子供など非戦闘員の住民が虐殺された事を知り、
大友軍のした事に非常に心を痛めました。

また、親や妻子など家族を殺された兵士もいたので、
戦意喪失どころか、復讐心に燃え、背水の陣の構えをとり、
今まで以上に激しい戦闘が繰返されたそうです。

そのため、『立花道雪』、『高橋紹運』は、
このまま兵力が減っていくと、大友軍の威信が失われ、
今後、他の勢力への戦闘にも影響が出てくるので、
裏切り工作を行う事にしました。

間者を使い、内応しそうな人間を探しました。

その結果、兵糧が少なくこれ以上戦えないと考えた
黒木家分家の家老『椿原式部正治(椿原式部)』が、
内応したそうです。

そのため、『椿原式部』の管理する支城の高牟礼城にいた
龍造寺氏の援軍が引き返しました。

『立花道雪』、『高橋紹運』は、
『椿原式部』より、城の弱点や抜け道、
そして、『黒木家永』が温情派という事を聞いた後、

『椿原式部』率いる元黒木軍を先頭にして、
猫尾城の三の丸を攻撃してきました。

今度は、『立花道雪』、『高橋紹運』の読み通り、

『黒木家永』は、黒木軍兵士全員に感謝の念があったので、
見知った顔の元黒木軍の兵士に対して、
今までの様に猛攻撃する事が出来ず、

鉄砲の弾は実弾から空砲に変えて、
威嚇射撃する事しか出来ませんでした。

その後、壮絶な戦いの末、双方多数の戦死者
そして、多数の地域住民が、
戦いの巻き添えになって死亡したそうです。

『黒木家永』は、
兵士や住民達の犠牲者が多数出るのに耐えられなくなり、
城兵全員の助命と住民達の安全とを、引換えに切腹し、
3ヶ月後に落城しました。

ちなみに、『立花道雪』は、
この戦いで疲労こんぱいし、気力、体力を使い果してしまい、
寝込むことが多くなり、落城後まもなく死亡したそうです。

そして、猫尾城は、
大友家分家の『田北宗哲(宗鉄)』が城代となり、
『椿原式部』と共に城を守っていました。

落城当時、肥前(現在の佐賀県)の龍造寺家に行っていた

黒木家嫡男の『黒木四郎延実』と
黒木家分家の『釜瀬大和守源頼之(釜瀬大和守)』らが、

落城と『黒木家永』の死亡の知らせを受けて、驚いたそうです。

そして、猫尾城を取戻すべく、
少数の兵を龍造寺家より借り受けて、急いで、黒木に戻りました。

そして、前回の戦いの後、四散していた黒木軍を再集結させました。

『黒木四郎延実』、『釜瀬大和守』、
『釘原五右衛門』、『中川原治部充』ら黒木一族が集まり、
作戦会議を開いたそうです。

そして、猫尾城を取戻すべく、大友軍に戦いを挑みました。

通常、攻城戦の攻撃兵は、
守備兵に対して、2倍以上の兵力が必要なのですが、
猫尾城を守る大友軍の兵力1500に対し、
黒木軍の兵力は半分以下の700でした。

『田北宗哲』は、黒木軍の兵力を知るまでは、
攻撃してくるかもしれないと警戒していたそうです。

しかし、黒木軍の兵力を知ると、安心したそうです。

『椿原式部』は、 『釜瀬大和守』ら黒木一族の性格を、
知っていたので、不利な状況でも、攻めてくると、
『田北宗哲』に進言したそうです。

しかし、『田北宗哲』は、
「城の守備兵より少ない兵力で城を攻めてくるという事は、
無謀で、兵法を知らないと言う事だ。

もし、攻撃してきたら、
黒木軍と違い、大友軍の将兵は、全員兵法を熟知しているので、
黒木軍を全滅させるのは、簡単な事。」と進言を退けたそうです。

『田北宗哲』の考えた通り、
圧倒的に不利な状況でしたが、
黒木軍の士気は高く、精鋭ぞろいでした。

そして、町の住人達は、前回の焼討ちで大友軍を嫌っていたし、
黒木家を慕っていたので、
住人達は、進んで数多くの松明や
旗など色々な物資を調達しました。

猫尾城の守備兵で、地元の人間は、
『椿原式部』とその少数の部下だけで、
それ以外は、全て大友軍の兵士でした。

『田北宗哲』は、
『椿原式部』とその少数の部下を警戒していました。

その為、『田北宗哲』は、
『椿原式部』と意識疎通がうまくいかず、
城の細部までは把握していませんでした。

先祖は、城への抜け道や弱点など城の構造を知り尽くし、
日頃より攻城戦などの兵法を研究していたので、
速攻の奇襲作戦が有効と考えたそうです。

そして、深夜に突然、数多くの松明や旗を立て、
大部隊のように見せかけた200の兵力が、
油断していた大友軍の守る城の三の丸正面に全力で攻撃をしかけ、
矢や鉄砲を激しく撃ち、正面から攻めるように見せかけたそうです。

深夜の為、少数の警備兵以外の城兵は寝ていました。

『田北宗哲』は、
攻めてくるとは全く考えていなかったので、
ゆっくり寝ていたそうです。
攻撃の知らせを受けびっくりして飛び起きて、
あわてて三の丸正面に兵力を集中させたそうです。

猫尾城は山城で、本丸の後は急斜面でした。
その為、城の後ろの警備は手薄でした。

黒木軍は、城後方に続く急斜面の抜け道を通り、
速攻で本隊500の兵力が突撃し、城内になだれ込みました。

城内での奇襲攻撃に、
驚いた大友軍は、裏切りが出たと勘違いし、
また、起きたばっかりで頭が働かなかったのも重なり、
大混乱になり、あっという間に壊滅状態になったそうです。

そして、
わずか1日で猫尾城にいた大友軍を全て駆逐し、
猫尾城を取戻したそうです。

そして、
『田北宗哲』には逃げられましたが、
『黒木四郎延実』、『釜瀬大和守』、
『釘原五右衛門』、『中川原治部充』は、
逃げようとしていた『椿原式部』を捕らえ、
処罰したそうです。

『大友宗麟』は、弱小と考えていた黒木軍により、
2度も大友軍が壊滅状態になり、
大友家の威信を失墜させたので、

「黒木の住人と猫尾城の人間を皆殺しにしろ」と激怒したそうです。

しかし、残念ながら九州で勢力を拡大するどころか、
当方の遠い親戚の島津氏により圧迫され勢力が弱まっていたので、
自力での攻城戦は、もはや不可能となっていました。

そして、 『高橋紹運』は、何の因果かは不明ですが、
猫尾城を攻めていた時とは反対の状況になったそうです。

それは、当方の遠い親戚の島津氏の5万の兵力が、
『高橋紹運』と800の兵力が守る岩屋城に攻めてきたそうです。

その結果、わずか2週間ほどで、
岩屋城に篭城していた『高橋紹運』を含め
大友軍兵士が全員死亡したそうです。

『大友宗麟』は、再び九州での勢力を拡大させたくて、
考えた挙句に、『豊臣秀吉』に助けを求めました。

そして、
九州に『豊臣秀吉』の大軍が侵攻してきて、征服されました。

先祖は『豊臣秀吉』の軍門に降り、小早川家に仕えたそうです。

その後、『豊臣秀吉』により日本が統一され、
猫尾城は『筑紫広門』が管理し、
その後、『田中吉政』の管理下に置かれました。

その後、『辻重勝』が城代になっていたのですが、
1615年に江戸幕府が発令した『一国一城令』により、

猫尾城は破壊され、石垣などの廃材は、
久留米城の補修・改築に使用されたそうです。

そして現在は、猫尾城の石垣の一部しか残っていませんが、
公園として保存されています。

その後、仕えていた小早川家が断絶したため、
主君を変えたりしたので、釜瀬氏は、
筑後(現在の福岡県)と
石見(現在の島根県)に分かれることになり、
現在まで続いています。

ちなみに、『大友宗麟』の嫡男:『大友義統』は、
朝鮮出兵時に、失態を犯し、
『豊臣秀吉』の逆鱗にふれ、改易されたそうです。
その後、関ヶ原の戦いの時、
御家再興を目指し西軍に加担したそうです。

でも、敗北したので、何かの縁かは不明ですが、
『前九年の役』で、四国・九州に流されず、
東北に残った当方の遠い親戚の
安倍氏子孫の出羽(現在の秋田県)の
『秋田実季』の元に幽閉されたそうです。

そして、江戸時代には、
怖いもの知らずの先祖がいて、人に頼まれて、
海外ドラマ「スーパーナチュラル」のように、
妖怪退治をした話が、何個かありますが、
話が脇道に逸れていくので、省略します。

そして、時代は流れ、
今から100年以上前に、福岡の師範学校で地理を教えていた
『釜瀬新平』が、より分かり易く地図を理解してもらおうと、
立体地理模型を作製しようと考えたそうです。

そして、地理模型の作製をするのに自由な時間が必要になった事と、
理想の教育普及活動実現の為、師範学校を退職したそうです。

そして、先祖の『調老人』が、1300年以上前に、
官僚育成学校の学長:『大学頭』を務めた事とは、関係ないと思いますが、
1903年に官僚になる為の予備校『予修館』を開校したそうです。

そして、素材や作製方法など、 色々な工夫をして、
縮尺10万分の1の『大日本帝国交通地理模型』という
日本初の立体地図模型が完成しました。

評判が良かったので、
1904年にアメリカのセントルイスで開催されていた
万国博覧会に出展するために渡米しました。

そして、世界に日本の美しさ、技術力の高さをアピールしました。

その時に、『釜瀬新平』がアメリカの学校を視察したそうです。
そして、アメリカの教育方針に感銘を受け、
理想の学校をつくる決意を固めたそうです。

そして、『予修館』を手直し発展させ、

1907年に福岡に
『九州女子高等学校(現・福岡大学付属若葉高等学校)』を、
開校しました。

現在に至るまで色々な事が、あったそうです。

世界大戦中も開校していたので、
戦時中の物資が無い中、校庭で作物を栽培したり、

戦時中の殺伐とした世の中でも、学生の楽しみや夢を無くさないように、
バザーや学園祭など、色々な工夫をして、実施したそうです。

でも、
福岡大空襲の時は、プールと宿舎の一部を除いて、
校舎が全焼したそうです。

その後、仮校舎で授業を再開しながら、
再建に着手し、再び開校したそうです。

オリンピックのメダリストの
『上野由岐子』さん(ソフトボール選手投手)と
『内藤恵美』さん(ソフトボール選手遊撃手)、
そしてバスケットボール選手の『大庭久美子』さんは、
卒業生だそうです。

ちなみに、歌手の『高橋真梨子』さんは、
歌手を目指して、上京するまでは、在籍していたそうです。

その後、『学校法人 九州学園』を設立し、
『野方幼稚園』、『福岡女子短期大学』、
『福岡国際大学』をつくっていきました。

そして、『富太郎』という名前は、
九州女子高等学校の3代目校長で東京大学(法学部)卒の『釜瀬富太』と
学園を発展させた『釜瀬冨士雄』、そして父親の『釜瀬富樹』から
偏諱を賜ったわけではないし、
通字(系字)というわけでは、ありませんが、
『富』という文字をもらい、

先祖達が色々な事をする時に、苦労したので、
苦労しないように名前に「ろう」という文字を名前に入れて

『富太郎』としたそうです。

但し、かなり苦労していますが…。

ちなみに、学校経営は、
親族たちが学校経営に捕らわれて、
自由に職業を選べなくなるのを防ぐためと、
馴れ合い的な放漫経営防止と長く続けていくためには、
色々な人がいた方が、刺激になり良いという事になり、
釜瀬家からは、代表者のみという事になったそうです。

そして、先祖が、日本で最初に猫大好き日記を書いたり、
動物の名前の付いた城主だったから…ではありませんが、
現在は、動物病院を開院しています。

歴史に名前を残せないとは思いますが、
良い病院をつくっていきたいと思います。

注釈

※1
先祖の『源高能(能高)』は、『醍醐天皇』の子孫なので、
実在可能性が濃厚と言われている『応神天皇』の
1700年前まで遡る事ができます。

また、伝承では、1700年前の先祖の『阿知使主』は、
後漢の『霊帝』の子孫という事です。

それを信じれば、漢王朝の『劉邦』まで遡れば、
2200年以上前まで続いていることになります。

後漢の『霊帝』までの系図は、
リンクのページの『日本の苗字7000傑』さん
『家紋 World・ 播磨屋』さんにあります。

鹿児島県の島津氏とは、血縁関係にあります。
島津氏の祖先の『弓月君』は、『秦の始皇帝』の末裔と言われています。

そうすると、秦の始まりの周の時代の2700年以上前まで遡ることになります。

※2
九州の城主間は、複雑に血縁関係があります。
『藤原鎌足』の子孫で柳川城主の蒲池氏とも血縁関係があります。

そのため、『大友宗麟』と戦った『猫尾城主・黒木家永』の弟の
『黒木益種』は、血縁関係があったため、蒲池家を継いで、
『蒲池益種』と名を変えて、柳川城支城の蒲船津城の城主となったそうです。

余談ですが、蒲池氏は『松田聖子』の先祖だそうです。

そして、『黒木瞳』の先祖『樋口越前守実長(樋口実長)』は、
黒木家の分家だそうです。

ちなみに、1800年位前の弥生時代の渡来人の割合は、
北部九州で80−90%、関東地方で60%を占めていたそうです。

日本に古来より住んでいる縄文人直系の子孫の割合は、少ないみたいです。

平安時代に編纂された氏族名鑑の『新撰姓氏録』に記録された
1182氏族のうち、先祖のように渡来系と自称しているのは30%ですが、
実際は、ほとんどが渡来系だそうです。

※3
 『清和天皇』の皇子:『諸王』子孫の多田源氏と書かれている文献もあります。

なお、古文・漢文・学説は諸説あり、解釈も様々なため、
口語など細かい所は意訳の部分もあります。

 

猫尾城跡地

福岡県八女市黒木の猫尾城跡地にて

http://azvet.web.fc2.com/neko.jpg

参考文献(順不同)

1 :  『姓氏家系大辞典』著者:太田亮
2 :  日本の苗字7000傑HP
3 :  吾妻鏡
4 :  明実録(太祖実録)
5 :  鎮西要略
6 :  古事記
7 :  新撰姓氏録
8 :  後漢書東夷伝
9 :  日本書紀
10:  続日本紀
11:  日本紀略
12:  懐風藻
13:  筑後志
14:  筑後将士軍談(筑後国史)
15:  筑後地鑑
16:  大智度論
17:  寛平御記
18:  根占町誌
19:  根占文書
20:  太宰管内志
21:  北筑雑藁
22:  北肥戦誌(九州治乱記)
23:  肥前叢書
24:  朝野群載
25:  五條家文書
26:  寛延記
27:  樋口宗保覚書
28:  毛利秀包記
29:  太平記
30:  小右記
31:  博多日記
32: 陸奥話記
33: 大友興廃記
34: 黒木物語
35: 『筑前戦国史』著者:吉永正春
36: 『筑後戦国史』著者:吉永正春
37: 『筑後争乱記 蒲池一族の興亡』著者:河村哲夫
38: 『漢王朝・劉一族と邪馬台国 』著者:波多江英紀
39: 『九州の南朝』著者:太郎良盛幸・佐藤一則
40: 『秋田「物部文書」伝承』著者:進藤孝一
41: 編年大友史料
42: 星野家伝記
43: 星野家譜
44: 秋月家資料
45: 黒木町資料
46: 津江神社資料
47: 霊厳寺資料
48: 猫尾城史跡資料
49: 九州学園資料『偉材 釜瀬新平』、『いま、釜瀬新平』他
50: 釜瀬家資料
51: その他


アズ動物病院アズ動物病院

〒010-0817
秋田市泉菅野1−2−26
TEL 018-864-5550
FAX 018-864-5550

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